児 島 惟 謙 こじま いけん
1837〜1908(天保8年2.1〜明治41年7.1)
宇和島生。用命雅次郎。坂本龍馬ら勤王倒幕の志士たちと交流。脱藩4回。品川県小参事を経て司法界入り。名古屋、大阪各控訴裁判所長を歴任後、'91大審院長に任ぜられる。後、貴族院議員、代議士。大津事件で『護法の神』の称をうける。関西大学を設立。明治41年72才で没。宇和島市堀端通の生家の跡に記念碑が立てられている。
《大津事件》明治24年5月滋賀県大津市で警備巡査津田三蔵が皇国を危うくするものと愛国者流に思い詰めての凶行だったが、相手がロシアだけに朝野は震え上がった。松方首相、後藤逓相、陸奥農商務相、元老伊藤博文、山県有明、黒田清隆、井上馨らが出席した会議で政府・元老は「日本硬質に対する犯罪と同じ扱いで極刑にせよ。」と決めた。それに対し、惟謙は「普通人の法律で裁くべきであり、内閣がどのような評決を下しても、法の精神に反する解釈は断じてできない。」と普通罪をもって無期徒刑を決定。時の権力による一切の干渉、圧迫と対決し、“三権分立”の信念を貫き通した。『護法の神』と言われた所以である。
《鶴岡事件》福島城東裁判所判事時代には、廃藩置県後も封建制度を守って県民の一切の権利を認めなかった。惟謙は「法に背き、新政府の威信を傷つける。」として、一介の小判事ながら、時の実力者大久保内務卿に強硬な意見書を送って難事件解決の切っ掛けをつくった。
《大阪国事犯事件》“援韓義軍”が発覚して捕らえられた自由党の壮士大井憲太郎らに対し、伊藤内閣は急いで『爆発物取締規則』をつくり死刑にしようと図ったが、当時、大阪控訴裁判長だった惟謙は“法律不遡及”の大原則を守って、政府の圧迫を跳ね返した。
このように惟謙は常に『法の番人』であり続けた。
|
土 居 通 夫 どい みちお
1837〜1917(天保8年〜大正6年)
志士として、又実業界の偉材として有名な土居通夫は、天保8年(1837)、伊達家の藩士大塚南平の六男として、市内元結掛浜の町に生まれた。故あって大塚家の里方土居家を相続し、土居彦六といっていた。幼時から文武の道に励み、上達した。
嘉永6年(1853)ペリー浦賀に入航以来、国内の議論は開港と攘夷の二派に分かれ、天下騒然としていた。通夫はこの時にあたり、志士田中幸助・坂本龍馬等と往来して国事を論じたという。
慶応元年(1865)脱藩して大阪に行き、志士と交わった。薩摩の田中幸助と連絡して京都に入りこみ、宇和島藩の兵糧周旋に奔走し、その手腕を買われ、明治になると大阪府の権少参事となった。以後累進して、15年(1882)大阪控訴裁判所判事となり、従五位に叙せられた。
後に、感ずる処あり、官を辞して実業界に入り、20年(1887)12月、大阪電灯会社を設立して取締役社長となった。その後、財界事業界の各方面に関係して、経営画策する所多く、日本生命取締役、大阪商業会議所会頭、大阪米穀取引所理事、宇治川推力電気取締役、大日本麦酒取締役、京阪電軌会社社長、大阪毎日新聞相談役、朝鮮炭鉱取締役、大阪実業協会長、中央電気協会長等々、大阪において財界の巨頭となり、誠意をもって公共の事に尽くし、商業道徳の向上に努力した。
27年(1894)大阪市より選ばれて衆議院議員となり、33年(1900)欧米を漫遊した。42年(1909)米国太平洋沿岸商業会議所連合会代表者の招きに応じて、渋沢栄一とともに渡航した。多年実業界に尽くした功労により、従五位勲三等に叙せられ、旭日中綬章を下賜された。大正6年(1917)9月9日、81歳で没した。
|
穂 積 陳 重 ほずみ のぶしげ
1856〜1926(安政3.7.11〜大正15.4.7)
宇和島市に生まれる。貢進生として開成校(東大の前身)に学ぶ。文部省留学生として英独に学び、帰国後日本ではじめての民法学者として母校東京大学の教壇に立ち、のち法学部長となる。'90勅選議員、'95教授を辞して名誉教授に任ず。1915年男爵を賜り、翌年枢密顧問官、帝国学士院院長となる。'25枢密院副議長ついで議長に昇進。臨時法制審議会総裁。日本の“民法の祖”と言われる。主著『法律進化論』『隠居論』『五人組制度論』。
陳重は教壇に立つとともに、民法起草委員としてその制定に努めた。丁度、明治3年に始まった民法編纂事業がようやく本格的になった頃で、既にフランス人法学者ボアソナードの草案ができあがっており、結局、明治23年にこれが公布された。しかし、陳重の実弟八束が中心となって展開された“民法典の大論争”の末、公布されただけで施行されずじまいだった。そしてその後、陳重が起草委員長となって民法典が生まれる。陳重の民法は長男重遠に受け継がれ『穂積民法』を確立。『八束憲法』とあわせて穂積兄弟の足跡は日本法制史の1ページに大きく刻まれた。
陳重は郷里を愛し、郷里の青年たちりために多くの書物を寄贈した。これが『榊森文庫』で、宇和津彦神社境内にあったが、今は市立図書館に保存されている。陳重は宇和島市の誕生においても大きな役割を果たしている。宇和島市は、宇和島町と八幡村が合併して大正10年8月1日に発足したものだが、その合併が具体化してから1年近く紛糾していた。陳重は、山村豊次郎町長に手紙でほ町村合併委員を上京させれば、説得しよう。」と申し出た。結局、八幡村合併委員のなかでも反対強行論の酒井計一ら7人が上京し穂積邸を訪れたが、たちまち威圧され、後はただ「ご説もっとも」と拝聴。帰りの船中では全員“即時合併”と気炎を上げる始末だったと言う。
昭和5年辰野川の新開橋が付け替えられ、橋名は『穂積橋』と変わった。山村市長から郷里のために尽くした功績を称え「銅像を建てたい」と申し出たが、「銅像になって仰がれるより、橋となって踏んでもらいたい」という陳重の意志によるものであった。
|
岩 村 昇 いわむら のぼる
1927〜 (昭和2年〜 )
1927(昭2)年5月26日宇和島市に生まれる。
1945(昭20)年旧制広島工業専門学校在学中に被爆、翌年卒業
1946(昭21)年旧制松山高等学校入学
1949(昭24)年旧制松山高等学校卒業、同年鳥取大学医学部に入学
1954(昭29)年鳥取大学医学部を卒業、同年3月21日門脇史子と結婚
1955(昭30)年インターンを了えて、鳥取大学衛生学教室に入局、直ちに助手に任命される。
1959(昭34)年医学博士学位受領
1960(昭35)年鳥取大学衛生学教室助教授に任命される。
1962(昭37)年(35才)1月鳥取大学医学部衛生学教室助教授を辞職
同年2月社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)よりネパールへ派遣、ネパール合同ミッション(UMN)タンセン病院に赴任した。
1980(昭55)年(53才)JOCSの規定により帰国、JOCSを退任した。
同年5月日本政府が発展途上国を援助する日本海外技術協力事業団(JICA)からタイ王国に派遣され、ASEAN INSTITUTE FOR HEALTH DEXELOPENT(AIHD)造りのPROJECT LEADERとして働き、
1987(昭62)年9月に任期満了して帰国。
1988(昭63)年1月から1991(平成2)年8月迄三井生命保険相互会社に、診査医長として勤務。
同年9月国際人材開発機構(IHI)を創設し、理事長となる。
受 賞
1978(昭52)年2月国際ロータリークラブ異文化理解賞受賞
1993(平成5)年8月31日マグサイサイ賞受賞
宇和島に生まれる。宇和島中学、松山高校から鳥取大学医学部出公衆衛生学を専攻。医学博士。
松山高校在学中、ドイツ語の副読本でシュバイツァーの伝記を読んだ。これに大きな感化を受け、「自分もいつの日か“ジャングルの医者”になって未開人の人を助けてやりたい。」と考えていた。その夢が実現しそうになったのは昭和33年のことである。日本キリスト教海外医療協会が結成されたときだった。派遣医を志望した岩村は、インドネシア・台湾・ネパールの3カ国を示され、躊躇なくネパールを選んだ。そして37年1月、昇はネパールへ飛ぶ。人口940万人に対して医者はわずか121人。72県中44県は無医県、国民の大半は一生に一度も医者に診てもらうことなく死んでいた。「同じ人間でありながら、こんな惨めな生活を置くっている人たち、とりわけ日本人そっくりのネパールの人を救いたい。」そんな思いが、苦境の中、岩村をネパールから離れさせなかった。2年間に175,000人を診療して38年末帰国した。
岩村は中学のとき結核にかかっている。「生きながらえているのは日本の医学が進んでいるおかげです。私はその余命をネパールに捧げます。」と日本中から善意のBCGを集め、40年11月再びネパールへ渡った。今度は永住するつもりで、鳥取大助教授という肩書きを捨て、年老いた両親も連れて行ったのである。
|
清 家 新 一 せいけ しんいち
19 〜 (昭和 年〜 )
宇和島市大宮町在住。昭和40年、東京大学数物系大学院修士課程卒。昭和46年、提供短期大学物理学助教授。大宮町に『宇宙研究所』設立。物理学会委員(宇宙開発事業団協働)。
昭和44年12月、『超相対性理論』初版発行。平成6年4月、十二改訂増補版発刊。某企業から研究資金の提供があったようだが、バブルの崩壊、その他の諸事情で打ち切られ、研究に支障をきたしている模様。一時は、米国航空宇宙局NASAから資金提供をうけていたとの噂もある。『超相対性理論』十二訂補版の序章に次のように記されている。
「父子永劫の象徴フェニックスは、五百目年毎に自らの香料を積み重ねて火を附け、其の上に焼死し、其の灰燼より再び甦る、とエジプト神話に伝承される。アインシュタインの相対性理論の熱灰の中より、聖なる不死鳥の甦って空翔けるを見る。〈超相対性理論〉と其の底なる宇宙哲学将に之である。
本書の内容は地球を楽園にする為の数学、物理学及び工学である。其の理論はアインシュタインの相対性理論とディラクの反粒子論を継承すると同時に、超平面の力学をふんだんに駆使して居る。フロンティアであると同時に、古典力学(特にジャイロ力学とヴェクトル解析)をも、十二分に愛用して居て、古き良き時代へののすたるじあをも感じられるでしょう。後半は、特に実験物理学の新分野〈重力力学〉の3機器として、(8)重力直接発電機、(9)逆重力機関及び(10)時間反転機を叙述致しました。特に、逆重力機関は、サアル氏の御協力に依り、見事な実験結果が出て居ります。
逆重力機関は、重力力学の〈永字八法〉にて、教育用モデルとしても、重宝な物です。
只、一方では、兵器としても可利用な訳ですので、平和利用を切望する物です。」
氏によれば、ノーベル賞委員会の内在する〈スウェーデン王立科学アカデミー〉が、資料として『超相対性理論』を14冊買い上げていったとのことである。天才物理学者か、はたまた、単なる異人か。評価を待とう。
|
平 井 正 史 ひらい まさふみ
1975〜 (昭和50年〜 )
宇和島市九島に生まれる。宇和島東高校野球部で高3の'93センバツは初戦敗退。夏の甲子園では、1回戦の三重海星高戦でMAX147キロ速球で13奪三振をマーク。その年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブから1位指名を受け入団。2年目の95年、150キロの速球とフォークを武器に抑えとして53試合に登板、15勝5敗27セーブの成績を残した。45SPはリーグ新で最優秀救援投手、さらに最高勝率で新人王を獲得した。
|